本帖最后由 司马弘曜 于 2012-8-16 20:30 编辑
这是全文的日语原版,给点时间,本屌给大家奉上中文翻译
昨年は、我が国が民族の生存を賭け、死力を尽して戦った大東亜戦爭の開戦より七十年という節目の年でありました。
大東亜戦爭は一般的に、真珠湾攻擊からはじまったように言われますが、なぜ日本はこの戦いに挑まなくてはならなかったのでしょうか。開戦に到るまでの過程を知ることが大切であります。
そこには十五世紀の大航海時代以降、数百年に亘る欧米列強によるアジアの植民地支配があり、十九世紀末、独立を保ち得ていたのは日本とタイだけという長い時代背景の中に開戦の要因があるからです。この樣な世界情勢の中で日本は明治維新以來、近代独立国家を建設するために懸命の努力を続けました。
しかし、日清戦爭、日露戰爭に勝利して列強の一つになったことで、事々に歐米列強との軋轢(あつれき)が生まれました。時は越え、昭和の時代になると全ヨ—ロッパが戦爭となる第二次世界大戦が勃発しました。
またアジアでは支那事変が発生し、国民政府が米·英·ソ連などの援助を受け事変は長期化しました。事変の長期化に伴い、米国の世論、議会では日米通商航海条約の廃止など対日制裁の強化が行われましたが、特に石油禁輸は決定的でした。
日本政府は、米国との戦爭を回避するため、昭和十六年四月から日米交渉を行いますが同年十一月二十六日に米国側は最後通牒となる「ハル·ノ—ト」が突き付けられたため、开戦止む無しとの決意に至ります。
時の軍令部総長永野修身大将は、「政府の情勢判断は戦いを避ければ亡国、統帥部の判断は戦うも亡国ですが、戦うも亡国、戦わざるも亡国ならば戦って、九死に一生の活路を求めるしかありません。戦わずして招く亡国は、心の底まで亡びる永久の亡国になります。護国のために最後の一兵まで戦い抜いた亡国は、必ずやわれらの児孫に受け继いで再起三起するでありましょう。」と述べたと伝えられたています。
この言葉からも日本が開戦に踏み切った余儀なき事情、脈々と受继がれてきた祖国防衛の精神、更には国家存亡をかけて臨んだ先人達の覚悟の程がご理解戴けるものと思います。
この特別展では、昭和十六年十二月八日の大東亜戦爭から翌十七年五月までの日本陸·海軍の「進攻作戰」の資料と、この作戦で雄々しく散華された数多くの英霊の御遺書·御遺品等を公開展示し、その殉国の至誠を顕彰するため企画致しました。一人でも多くの方々にご参観戴きたいと願っております。
平成二十四年三月十日 |